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この古墳は、
山陽本線の西条駅からブールバール通りを約2km南下し、西側に市立中央図書館が見えてくる。その図書館の裏手にある。
市立中央図書館には、この古墳のガイダンスコーナーがあり、出土品も展示されてる。
しかし、私は、休館日の月曜日に行ったので、ガイダンスコーナーを見る事はできなかった。休館日を良く確認して行けば良かった。
機会を見つけて、また行ってみよう。
以下は、三ツ城古墳周辺の地形模型。
右の説明には、「古墳は、周囲の平地より高い場所に造られているが、両側、正面には更に古墳より高い尾根があり、古墳からの眺めが遮られている。大豪族は、このような奥まった場所を一族の墓所として選んだ。」とある。
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右は、約50万年前の地形の説明。
50万年前は、ここは西条湖と呼ばれる大きな湖であったらしく、三ツ城古墳も湖の底だったらしい。
後に、呉の二級峡の堰が切れて、湖の水が流れ出した。
西条盆地の地形は、この西条湖によって形成された。
下は、昭和23年(1948年)当時の地図。
上の地形模型も、この地図がベースか?
今は、この三ツ城古墳周辺は、住宅街となっており、様変わりしてしまっている。
当時は、この周辺には多くの古墳があったようだ。
しかし、この辺りに昔から人が住み続けてきた事は、変わりが無いのだろう。
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ここには、
@前方後円墳の第1号古墳、A円墳の
第2号古墳、
B楕円形の第3号古墳と、3つの古墳がある。
第一号古墳は、広島県最大の古墳だ。
第一号古墳の墳丘は、
3段に築かれており、平坦面には埴輪が立て並べていた。
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第一号古墳の平面図。
古墳の周囲には、周溝があった。(右図のオレンジ部)
前方後円墳の左右のくびれ部に、
祭壇として使用された造出がある。
そして、西側の造出には、造出に渡る為の陸橋と、道があった。
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図書館の駐車場から古墳を見たところ。
1993年に復元されたもの。
墳丘の斜面は、葺石でおおわれていた。
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古墳を前方部側から見たところ。
古墳背後の山は、八幡山。
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墳丘は、3段に築かれており、平坦面には、
いろいろな種類の埴輪が並べらられている。
しかし、心無い人により、いくつか埴輪が破壊されていた。レプリカとは言え、腹が立つ。
これは、馬形埴輪。
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馬型埴輪の説明。
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これも馬形埴輪。
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前方部の西北角から見上げたところ。
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前方部を登り、後円部方向を見る。
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前方部の説明。
前方部は、もともと葬られた人への祭りを行った場所であるが、この古墳が造られた頃には、その役目を造出にゆずり、古墳を壮大に見せる為のものになっていたようだ。
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前方部には、1号埋葬施設と2号埋葬施設の蓋石が置いてあった。
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衣傘形埴輪。
古墳時代の日傘がモデル。スカート様の物が傘。その上は、羽飾りを表している。
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後円部には、家形埴輪もあった。
一方の屋根が、心無い人により壊されている。
埋葬された人も、こんな家に住んでいたのかもしれない。
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後円部上には、3つの埋葬施設があった。
1号と2号は、左右に並んで、3号だけ南側にずれてあった。
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一号埋葬施設の説明。
女性と思われる人骨があった。
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箱形石棺の幅は30-40cmと、実物を見ると、意外と小さく感じた。
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2号埋葬施設の説明。
内側の箱形石棺を石槨が包み込んでおり、2重の箱形石棺になっている。
壮年の男性の人骨が出た。
2号埋葬施設は、後円部のほぼ中央にあり、この古墳を造らせた人物と見られている。
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3号埋葬施設の説明。
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後円部上から、前方部の方向を見る。
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横に張り出している四角い平たん部は、祭祀を行った東側の造出。
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東の造出から後円部を見上げたところ。
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前方部の北東角から古墳を見上げたところ。
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西側の後円部下から古墳を見たところ。
古墳の周囲の道になっているところは、昔は周溝になっていた。
そして右写真の丸で囲んでいるところに、周溝を渡る陸橋があった。そして西側の造出へ登る道が続いていた。
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周溝を渡る陸橋があったあたりから造出へ登る道。
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西側の造出から後円部を見上げる。
この造出からは、祭り事に使用された須恵器の器台や、土師器の高杯等が見つかった。
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後円部から西側の造出を見下ろしたところ。
古墳を管理されている人が、枯れた芝を刈ったり、集めたり清掃中。
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